私というもの
徒然なるままに。
人間らしいとはなんなのか。
人間らしさに生物としての機能は含まれるのか。
生物+知能=人間 だとしたら猿、犬、鳥にも知能はないのか?
赤子に知性はないのか。
バカには知能がないのか。知性と知能をわざと混ぜたのはなぜか。
俺は人間をやめるぞぉ!ジョジョォ! とはディオの言だが、人間を脱するのに仏教の解脱の考え、戒律の考えがある。
人殺すなとか盗むなとかだ。そうすれば仏に成れる=成仏。人間をやめれる。
では、人間らしくありたいと思ったら戒律を破ればいいのか。
戒律が生物の本能の抑制にあるとしたら、生物機能を捨てなればならない。
ならば、人間らしくありたいとしたら生物機能を取り戻すことも重要ではないか。
自己複製が生物の本能としたら、その副次的に、多様性によって外部環境の変化を生き抜く淘汰の世界を生き延びたなら。
細胞分裂によって生物は一秒前の私と今の私は違う素材でできている。
その意思なる自己統一性を担保する脳の電気信号のリレーションは、形而上の概念を生み出した。人間には思考があるとされた。知能があるとされた。
映画こそは知能の錯覚による総合芸術だ。
背景のマスターショットで状況説明してから、人の顔を写せば、その人はその背景にいるんだなと観客が感じるのはなぜなのか。
それぞれ分断されたカットを繋げることで生まれる解釈。モンタージュ。そのカットの意味、アクション、レイアウトの意味を考える。ストーリーを考える。
総合性、全体性、統一性。分けることによって生まれた学問。
私を分けることはできるのか。
切った爪は私か? 怪我して流れた血は私か? 提供した臓器は私か?
私を構成するものはなんなのか。
実際なにも私を構成などはしてはいない。
私なる存在定義を誰もしてはくれない。
しかして、エビスマイスターはうまいし、うなぎの白焼きにわさびで恍惚感に浸り、性には喜びがあり、MacBook買ってトリプルディスプレイしたついでにブログを初めてみることに楽しさを感じる。