香りと味の演技と演出、ステレオタイプ

香りや味は目に見えない。

一般的には数値化ができない。

人間の身体性に関わるものとしては表現が難しい感覚である。

映像表現は視覚、聴覚媒体であるために、この二つのどちらかに変換して表現しなければならない。

出力装置としてモニタとスピーカの二つしかない映像表現は、他の感覚器官の表現を翻訳する必要性が出てくる。

それは役者の「演技」や「演出」として扱う分野でもある。

例えば、公衆トイレの汚い画を見せ、そのリバースショットでキャラの顔をしかめっ面させたり、わかりやすく鼻をつまんだり、「くっさ」とセリフを言わせるのは、ステレオタイプな表現と言っていいだろう。これはつまり翻訳の仕方がステレオタイプだということだ。世の評論家たちは、この翻訳をひねて表現することを好む。あるいは、現実的に「私」がその場にいたらどうアクションをするかという観察をして微細な違いを出すことを「リアル」と呼んだりしている。

アニメで演技は「観察」して「実際にやってみる」のが重んじられるのは、絵面が偽物なだけに「リアル」を感じさせたいから重要視する。

実写でステレオタイプをやれば「大根」「アニメっぽい」と呼ぼれる。

実際にはそれをやるやらないに関わらず、「実際やってみたら人(私)ってこういうアクションするよ」と「映像ではこういうのが定番だよね」との違いで評価は変化する。

どちらも観客の目線では、空想上のものだが、今までみた映像の文脈を知っている人はステレオタイプを嫌う。逆に映像の文脈を知らない観客は演技に違和感を持たない。アニメが「幼児向け」と評価されていたのが、映像の文脈を知らない観客を想定しているからだろう。このステレオタイプを記号化とも臭い演技とも下手な演技とも、同じだろう。

しかし、である。映像は制作者と観客のコミュニケーションである。二者間では共通言語が必要である。演技においてこのステレイオタイプを使うことは、わかりやすく伝えることにおいては素晴らしい。観客の頭の中、一つ一つに表現の意味性を想起させるには必要なことでもある。逆にうまいとされる演技「私」の演技は、共通性において課題を残す。「意味がわからない」「あれってどういう意味?」「なんかぬるぬる動く」「無駄に枚数使う」という評価もまたある。この「私」を出す表現は「パンツを脱ぐ」とも言い換えた監督もいたと解釈している。「観客」に受け入れられるかどうか不鮮明なのだ。

他の感覚器官を「視覚」「聴覚」で翻訳すること。これができる人はうまい人と評価されることは、まぁ間違いない。