目の芝居と時間
目には力がある。
視線、瞬き、ライティング(目のハイライト)、瞳ぶれ、まぶたの動き、眉毛の位置。
目の形とアクションは簡単にドラマにできる強力さがある。
だから、意味を持たせないために、実写では安易に瞬きをしてはならない。
アニメでは、瞳ぶれで動揺を表現してはならない。
映画が活動写真であり、1秒を24枚の画によって構成されているということは、その前後の画の差異によって観客に意味を与え続ける。
0000100000000010000
この数字の中の 1 に意味を見出そうとするのが知性である。
画に変化があるということは意味性が変わるということだから、意味を持たせたくなければ何も前後のカットで変えてはいけない。
と、書いておいて、間 という恐ろしい要素が入ってくる。
映画が時間の芸術なのは、このせいだ。現在過去未来の時間軸を入れ替えて描写することが映画の特性ではない。それは小説でもできる。
小説と違う物語方なのは観客がそのシーン、そのカットの「タイミング」を変えることができないということ。「タイミング」を演出がコントロールできるということ。
A:
女「愛してる」
男「俺もだよ」
B:
女「愛してる」
男「……俺もだよ」
この違いを出すには、意味を持たせるには男のセリフを言うまでに、男がアクションをする必要はない。カットを変える理由もない。インサートカット入れる必要もない。
男が発言するまで時間(タイミング)を取ればいい。その間に何も画に変化は不要である。
これによって男の発言を観客が考えることに成功する。
観客は男の気持ちに疑いを向ける。或いは、男の気持ちがより一層強まっている可能性もある。
返答に時間を要したということに、逡巡する男の気持ちに観客がフォーカスさせることに成功する。観客が登場人物の気持ちを考えるように誘導することこそ演出である。
この男の気持ちの変化を強調させるために、男がアクション(目の動き、瞬き、視線をそらす等)したり、カットを変えたり、インサートカット入れたりする。あくまで強調のためだ。
だから男には返答までの間に安易に瞬きもさせてはならない。意味を持ってしまい、演出とは逆の意味を持たせてしまい、観客を混乱させる要素だからだ。
演出とは観客の気持ちの誘導。目の瞬き一つでも気を配ろう。
私というもの
徒然なるままに。
人間らしいとはなんなのか。
人間らしさに生物としての機能は含まれるのか。
生物+知能=人間 だとしたら猿、犬、鳥にも知能はないのか?
赤子に知性はないのか。
バカには知能がないのか。知性と知能をわざと混ぜたのはなぜか。
俺は人間をやめるぞぉ!ジョジョォ! とはディオの言だが、人間を脱するのに仏教の解脱の考え、戒律の考えがある。
人殺すなとか盗むなとかだ。そうすれば仏に成れる=成仏。人間をやめれる。
では、人間らしくありたいと思ったら戒律を破ればいいのか。
戒律が生物の本能の抑制にあるとしたら、生物機能を捨てなればならない。
ならば、人間らしくありたいとしたら生物機能を取り戻すことも重要ではないか。
自己複製が生物の本能としたら、その副次的に、多様性によって外部環境の変化を生き抜く淘汰の世界を生き延びたなら。
細胞分裂によって生物は一秒前の私と今の私は違う素材でできている。
その意思なる自己統一性を担保する脳の電気信号のリレーションは、形而上の概念を生み出した。人間には思考があるとされた。知能があるとされた。
映画こそは知能の錯覚による総合芸術だ。
背景のマスターショットで状況説明してから、人の顔を写せば、その人はその背景にいるんだなと観客が感じるのはなぜなのか。
それぞれ分断されたカットを繋げることで生まれる解釈。モンタージュ。そのカットの意味、アクション、レイアウトの意味を考える。ストーリーを考える。
総合性、全体性、統一性。分けることによって生まれた学問。
私を分けることはできるのか。
切った爪は私か? 怪我して流れた血は私か? 提供した臓器は私か?
私を構成するものはなんなのか。
実際なにも私を構成などはしてはいない。
私なる存在定義を誰もしてはくれない。
しかして、エビスマイスターはうまいし、うなぎの白焼きにわさびで恍惚感に浸り、性には喜びがあり、MacBook買ってトリプルディスプレイしたついでにブログを初めてみることに楽しさを感じる。