人間は生物に向かう

私はホモ・サピエンスである。

ホモ(ヒト)属のサピエンス(賢いという意味らしい)。

ホモ(ヒト)属には他にも存在した。

ヒト属 Homo

私というホモ(ヒト)属は、アフリカで生まれ、分岐し、世界に散らばり、サピエンスは、他の種族、ホモ・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)と混血し、或いは他の種族とも混血した。つまり、私は雑種である。

しかし、ホモ・サピエンス以外は絶滅してしまった。なぜか。

サピエンス、賢いと名付けた理由において、二足歩行、脳の肥大化、道具、火の扱いなどを挙げられるが、それでもあの巨大なマンモスや巨大動物に立ち向かえるだろうか。

今の私に、木の棒とマッチを手に、サファリパークに放り込まれて生きのびれるだろうか。ジャパリパークのフレンズたちならばともかく。

人は社会的動物である。

つまり集団で生活する生物である。しかし、猿とは違う発展を遂げた。なぜか。

ボスザルになるには喧嘩の強い奴がなるのではなく、普段の仲間への接し方、毛づくろい、触る、餌の共有などで、世話を焼いているものがなるという。

他のホモ属も同じように世話焼きがボスを勤めた集団であっただろう。

サピエンスは宗教(アニミズムなど)を持った。

宗教とは要は肉体的接触がなくても、一見さんでも同じ絶対者(神など)を信仰していれば、仲間といえる。ボス猿のやり方では50人程度しか集団を作れない。

しかし、宗教、つまり概念として、形而上の存在を語り、信じることによって集団の幅を広げた。

もう一度考える。サファリパークに私1人ではなく、1万人がいたらどうだろうか。

生き延びれる気がしないか?それどころか、サファリパークの動物を絶滅することすらできる気がしないだろうか。

私たちの先祖はそれをやったのだろうと考える。

サピエンスの移動によって現地の繁栄していた種族があっという間に絶滅する例には困らないだろう。

同じホモ属に対してどのような態度をサピエンスはとったのだろう。

そして私は考える。当初は、社会集団形成のために絶対者(神)を必要とした人間は、現代社会において、絶対者(神)は死んでいる。

ではどうやって、人間は社会を作るのだろうか。

自分で自分を縛るもの、道徳、倫理、宗教といった神に頼っていた我々は、神を捨て集団を捨て、個人社会、多様性の社会、ダイバーシティへと移行した。

これはホモ・サピエンスの原始への回帰なのか。

しかして、生物としての意識を私たちは持ち続けているのだろうか。自己複製(子孫繁栄)を現代日本社会は少子化ということで捨てていることがわかる。

人間が「人の間」と書くのに社会的動物であることが意識される。しかし、人と人とのネットワークは、宗教の代わりにインターネットで代用されるようになった。

メール、SNSといったもの、信号で遠くへ飛ばし、出力装置によってあたかも近くに人の断片がいるかのように接するようになった。

しかし、同じもの(宗教)を信じていない現代社会は、ボスザルと同程度の社会形成しかできないと考える。ネットワークの発展向上が他者をつなぎ合わせる技術ではあるが、そのボスザル的肉体的接触を、どれほど分解でき、情報によって相手に届けることができるかが課題といえる。

知能を分解し、身体機能を分解し、情報化する。それらを遠くの相手に再現する。或いは生成する。或いはフィードバックする。

現代の人間は生物としての機能を分解することに力をいれている。